「プリズン・サークル」内省のサバイバル術

私はわりと不謹慎な人間なので仕事の合間に行った家庭菜園の畑作業では、昨今の閉塞した社会の空気を勝手に「ポストアポカリプスみ」に変換して、文明崩壊後に細々と自給自足している自分、という妄想で楽しく雑草を抜くことができた。
不謹慎とはいえ、外出自粛は割としっかり守っている。(不謹慎と不用意は違う)
そのため、毎週見ていた映画も、マクドナルドに行っての読書もここのところ全く捗っていない。
そうなってくると普段は新しいフィクションによって常に上書きされ、記憶から抜け落ちる「感想」のようなものがいつの間にか脳内に醸成されてくる。
今日の畑作業中にある程度発酵が進んだようなので、こうしてブログに記録しておきたいと思う。
一番最近見た映画は「プリズン・サークル」だ。
先に言っておくと、社会的な意義の大きな作品であり、社会をより立体的にとらえるための新しい視点を与えてくれるドキュメンタリー映画だった。
ただ、恥を忍んで言えば、このドキュメンタリー映画を見た私の個人的な動機は、私が「監獄もの」や「入院もの」という、「非日常に閉じ込められ、否応なくそれが日常となる」「密室に居続けなければらない」というようなジャンルを好んでいるという一点に尽きる。これもまた私の不謹慎な性質によるものなのかもしれない。
言い訳をさせてもらえばこの性質は小学生の時期にすでに発現していたもので、当時の愛読書は「31歳ガン漂流」だった。
31歳ガン漂流

31歳ガン漂流

 
特に闘病経験もなく、あるのはせいぜい風邪かインフルエンザ程度の子供にとって「入院」というのは「体温計の数字の上昇によって学校に行かなくていい日」の無期限延期状態、というような認識でしかなく、学校でありふれたいじめの渦中にいた私にとってそれは甘い陶酔をもたらす妄想であった。
というわけで、この性向はすでに自分の意志での矯正は不可能なほど私の人格と一体化しており、根本的な治療を施すには「入院」が必要だろう。
プリズン・サークルはドキュメンタリーとして画期的(この表現が正しいのかわからない)な作品であり、これまで漫画や文章という形でしかほとんど一般の社会には出回らなかった日本の刑務所の内部に、じっくりとカメラを据えてその様子を実写で捉えている。業務の一部が民間に委託され、ロボットが食事を運んでくる、というような最先端の刑務所であり、そのあたりがカメラを入れることを許された理由のような気もしなくもないが、とにかく、日本の刑務所内を実写で撮影することは難しいらしい。
出てくる人は加害者と数名の職員だ。
収監されたことこそ無くとも、大なり小なり加害者という立場になったことはある、という人が多いのでは無いだろうか。もちろん私もそうだ。実際に加害者になったことがあるし、また、自分は今誰かにとっての加害者になっているのでは無いかという疑念を抱くことが多い。また、誰かに加害してしまう未来を妄想することもある。いろいろな形で「加害者の自分」について考えることがある。
インターネット上でよく見る画像に「こち亀」のあるシーンを切り抜いたものがある。真面目に生きてきた人よりも、人に迷惑をかけまくっていたヤンキーが更生すると賞賛を浴びるのはおかしい、という内容で、まぁそうだね、と思うようなことを言っているわけだけど、じゃあ自分が加害的な立場に立った時ってそんなにいい待遇だったか?と思うとそんなわけが無い。確かに悪いことをした後に良いことをすると評価されやすいのは事実かもしれないが、それは一面的な見方であって、本当のところは「加害者が良いことをすると過大に評価される」のではなく、「加害者は常に行動が評価され続ける」という方が正しいのでは無いか。これはよく考えてみる必要が無いほど地獄だ。私なら耐えられない。逃げ出したいと思うだろう。でも犯罪を犯し収監された人は刑務所の中でも、また出所後であっても前科を知られた周囲の人間から「評価」され続ける人生が待っている。本当に反省したのか?本当は良い人間なのか?やっぱり悪い人間なのか?また罪を犯すのでは無いか?いやもうすでに…そんな面接官に囲まれて生きていかなければならない。そしてさらに、真面目な人間ならつい自分で自分を評価してしまうのでは無いだろうか。自分が本当に反省した、なんて言い切れる人間がいるだろうか?いるとしたらそいつは多分あまり誠実な人間では無い。誠実な人間ほど自分を疑い、罰し続けるだろう。
プリズン・サークルで出てきた加害者が本当に誠実な人間なのかは知らない。本人にも分からないことだろう。ただ、このドキュメンタリーにまとめられていたプログラムは評価され続ける今後の人生とうまく向き合って行く方法を受刑者に与えるのでは無いだろうかと思った。おそらく、多くの人間は評価され続ける出所後の生活に耐えきれない。自分の過去を知っている人の前から姿を消すか、罪を自己と悪い意味で同一化し再犯を重ねるか、そんなところかも知れない。でもいろいろな手法と相互扶助によってその過酷な評価の嵐を生き抜いていく「内省のサバイバル術」のようなものを教えている、そんなふうに感じた。
少なくとも、自分の身内が被害者になり、犯人が捕まったとして、その犯人には刑務所内で雑巾を縫うのではなく、このようなプログラムで自分の罪や人生と向き合って欲しいと、少なくとも、当事者でない今はそう思う。

「ムーンランド」ストイックな彼の欲望

 

ムーンランド 1 (ジャンプコミックス)

ムーンランド 1 (ジャンプコミックス)

 

 

山岸 菜の「ムーンランド」が面白い。

「ムーンランド」は体操を取り扱ったスポーツ物の漫画で、それはもう真正面から体操というスポーツを、これでもかとクソ真面目に取り上げている。

多くの人にあまり馴染みのない「体操」を、そのルール、採点方法から選手のモチベーションまで、ちょっとした教科書のように要所要所で説明してくる。なんだか少しダサいような気もする、実に泥臭いやり方とも思える。これは多分、ルールの込み入ったスポーツを、少年漫画のスピード感で読者の頭にインストールするのには、物語の中でスマートに少しずつ理解させるより、進研ゼミ的にある程度まとめて解説してしまう方が向いているという判断だろう。この方針は成功しているように思う。この作者の漫画を読むのは初めてだが、この割り切った情報のまとめ方によって実にテンポよく話が進んでいるように思える。マイナー気味なスポーツを題材にする時の一つの解決策なのではないか。

また、表紙やあとがきにあるように、水鳥寿思という体操競技選手を監修として招き、その正確な情報伝達への本気度がうかがえる。

体操というスポーツへの本気度も一つの見所だけども、この漫画でもっとも注目しているのは選手たちの「モチベーション」だと思う。確かに、体操というスポーツはよく知らない人間にとってはいまひとつ目的がよくわからない。この漫画を読むまでは僕もよくわからなかった。しかし、この漫画に描かれる選手たちは皆、実に様々なモチベーションを抱えて体操に取り組んでいる。その内的世界の多様さこそ、この漫画の最大の魅力なのだと思う。個人で黙々と取り組むストイックなスポーツだからこそ、練習に対する考え方や、試合に向かう気持ち、そして演技中に到達する自分だけの世界がとてつもなく魅力的で興味深い。

そんな中でも主人公のミツくんの「モチベーション」は少なくとも僕のような読者にとっては特に魅力的だ。無口で黙々と基礎練習を重ねる彼は表面的にはとてもストイックに見えるし、実際そうなのだろうけど、そんな彼を突き動かしているのは「自分の体を完璧にコントロールしたい」という抗い難い「欲望」のように思える。真面目さが限界を突破して狂気に至るキャラクター好きにとって萌の塊のようなキャラクターだと思う。

日常生活でも、ストイックなあの人の頭の中はどうなっているのだろう?と思うことがたまにある。僕自身、全くこらえ性のない人間なので特にそうなのだろう。そんな日々の疑問に対して一つの答えを見せてもらったような気がして、一巻を読んだ時は目から鱗、といった感じだった。ストイックな人は無欲なのではなく、完全性への強烈な欲望が彼を突き動かしているのだ。

それでも最新の4巻では己のこの欲望に付き従うだけでなく、チームのために競技に取り組まなければならないのではないかと苦悩する姿も描かれる。人としてあるべきモチベーションと、人を狂気じみた天才へ変貌させるモチベーションは全く違う。これからも目が離せない作品だ。

習慣の抜け殻にBIMを詰め込む

一ヶ月ほど前、一級建築士の試験が終わり、これまでの勉強中心の生活リズムを調整しているうちに時間が経ってしまった。

試験の結果はまだ分からないが、今の時点で感じているメリットに「頑張れば毎日2〜3時間の可処分時間を確保できる」ということが実証された、という点が挙げられる。

これは、個人的にはなかなか目から鱗というか、流行りに乗っていうのならばこれまでは「ボーッと生きて」いた訳だ。

という訳で、せっかくなので可処分時間を資格勉強以外のアクティビティに充てるべくいろいろ「調整」しクオリティオブライフ的なものを上げてみようと画策している。こういった習慣に基づく時間管理は熱いうちに打たねば、いとも簡単に日常の怠惰に溶け出してしまうものだ。

そんな訳で意識は地を這う様に低いものの、習慣は意識高めの抜け殻となっている状況をうまく再利用してやろうと思う。

 

今何を学習するべきか。

そこで考えたのは木造BIMである。

私の所属する事務所はつい最近、これまで使っていた古いCADがVectorWorks Archtectに切り替わった。BIMが使えるこのソフトは、正直言って今の事務所にはオーバースペックもいいところだ。が、私にとっては僥倖という他ない。

まず、なぜ木造BIMを学んでみようと思ったかについて整理したいと思う。

私が現在、個人の建築事務所のスタッフとして行っている業務だが、はっきり言ってそのうちAIなどに取って代わられる可能性が非常に高いと思っている。ボスのスケッチなり簡単な図面から詳細な各種図面を書き起こし、模型を作り、打ち合わせに同席し、そこで出た変更を図面に反映する。確認申請の書類を作成し、現場管理を行う。これらの作業は効率的に漏れのない様に遂行するテクニックはあるだろうが、個性や独自性の様なものは一切必要ない。人工知能の方がよほどうまくやってくれるはずだ。つまりこの仕事は次のステップに必要な知識と経験を身につけたならばできる限り速やかに辞めるべきなのだろう。

一方で、私のボスのような人間は人を雇い続けなければならない(ボスは自分でメールを打つこともできないし、デジカメからパソコンに画像を移し替えることすらできない)。今、事務所のスタッフが全員やめれば彼もまた事務所を閉鎖しなければならないだろう。

そう考えると、今の私はある意味で、ボスよりはマシな状況であると言える。すなわち、もし私が独立し、事務所を構えるとしても人を雇わずある程度の現場をこなすことができる未来がすぐそこまで来ている様に思えるからだ。先ほどまでやや悲壮な私の現在の仕事観を書いたが、それは一スタッフの立場から見た場合であって、ボスになれば事態は一気に好転するかもしれない。

作図はBIMに、模型作りは3Dプリンターに(あるいはVRに)、確認申請業務はAI(人工知能までとは行かなくても支援ツールはすでにいろいろある)、唯一ハードが必要と思われる現場管理は当分、人間が必要だろうが、楽観的に考えれば人件費を払わず事務所を回していける支援ツールがこれから増えてゆくだろう。(BIMなんかは高価だが、人件費と比較すれば破格に安い)

ならば、とりあえず手をつけるべきはBIMだ。うまくいきそうな感じなら今の業務にも部分的に取り入れられるかもしれない。とりあえず終業後の時間を少しずつBIMの理解と練習に充ててみたいと思う。

気がかりなのはネットを検索してみてもあまり木造BIMを使っている事務所のブログや記事に行き当たらないことだ(もちろんエーアンドエーの広告記事は除く)

誰も使っていないのだろうか?いやそんなはずないよな・・・とやや不安だが、まぁとにかくやってみようと思う。やってダメならまた考えるさ。

「違国日記」物語における”叔母”なるもの

 

 


むかし「傲慢な援助」と言う本を読んだ(と思う)(あれ?本当に読んだっけ?)

その本は確かNGOとかの人道支援の問題点を指摘する内容だったと思うけど、誰かを助けたいと思った時、援助する側に傲慢さが見え隠れすることは確かにある。相手の境遇を「かわいそうだ」と思う、とか、何か「してあげなきゃ」と思うとか、それはすでに相手を少なからず侮辱することになる。

ヤマシタトモコの「違国日記」(読み方は”ちがうくににっき”でいいのだろうか?)は両親を失った15歳の少女を叔母に当たる「狼のような目をした」小説家が引き取り、共同生活を送る、と言う物語だ。

両親を失った傷と15歳と言う年齢特有の心の揺れが作中で混ざり合い、また、叔母も人間的に不完全さを抱えながらも自分なりの筋を通した生き方、人との接し方を模索する。

冒頭でも書いたが、誰かを助けたいと思った時、それを上手く実行するのは非常に難しい。相手にとって本当に正しいことなのかわからない、その時してほしいことと長い目で見た時にするべきことが食い違うことは多いし、干渉する、しないの線引き、相手を自由にさせてやることが理解なのか?と言う問題。相手を一人の人間として尊重するなんて、平常時ですら難しいのに、窮地に陥って、心が瀕死になっている相手に、どんなことをしてやれるだろうか?

物語における「叔母」なるものは、割とこういうことが上手い存在として、言い方は悪いが、便利に使われることが多いと思う。精神的に窮地に陥っている少女を救ったり、アドバイスを与えたりするのは、大抵、独身でどこか浮世離れした、魔女のような母の姉妹だ。今回の違国日記も基本的にはそのフォーマットに則っている。表紙に小さく書いていある「Journal with witch(魔女の日記)」という英題からしても、それはヤマシタトモコがはっきり意図していることなのだろう。そういえば「魔女叔母さん」が出てくる作品て沢山あるし、これは一つのジャンルと言ってもいいかもしれない。

これまで様々な作品で便利に使われてきた「魔女叔母さん」のフォーマットを使用しているので、表面的にはよくある物語と思われがちな作品かもしれない。ただ、今回は傷つき、居場所を失ったのは少女だけでなく、叔母もまた、少女を引き取ることで自分の(自分だけの)城を失っている、と言うのがミソだと思う。人と関わるのが苦手な叔母もまた、戸惑ったり、傷ついたりしながら成長してゆく。だから読んでいて予定調和なだけの定型の物語とは全く違う、時にスリリングな女二人の共同生活から目が離せなくなる。

ヤマシタトモコはとにかく会話劇の妙、と言うか、日常会話を漫画化することに関しては現代の漫画家の中でもトップクラスなのではないだろうか。「ミラーボールフラッシングマジック」で、ほとんど女友達4人の会話だけで進んで行く話があり、その頃から日常会話といえばヤマシタトモコ、みたいな印象だったけど、意味もなく言い間違えたり、吹き出しを使って言い淀む感じを表現したり。それがこれ見よがしでなく、あくまで日常会話として、そのテンポを視覚的に届けてくれるから、読んでいて会話の臨場感がすごい。

そしてそんな気持ちのいい日常会話の隙間をついて出てくる「ぐっ」とくるセリフ。いいセリフがとにかく多い。救われるような、心強い言葉もあるし、ほんとそれな!って思うセリフもある。でも僕が読んで、やっぱヤマシタトモコ最高だわって思ったセリフは「乾いた寿司は殺す」ーそれな!

違国日記では、3巻目にして亡くなった両親の様子が具体的に描かれるようになってきた。叔母は、姉である少女の母を憎んでいる。が、少女から見た母親は、また違う一面を持っている。劇中ですでに存在しないキャラクターだからこそ、いろんな立場の人間の口から語ることで、立体的にそのキャラクターの多面性を描ける。新しい環境との格闘がひと段落した3巻目以降は、母親と娘の関係を、より立体的に描いてゆく感じになるのではないかと、今からワクワクしている。毒親という言葉が一般的に知られるようになった昨今、毒親というほどでもないけど親に対してモヤモヤと感じることがある人が多いのではないだろうか。そういう世の中の流れを敏感に感じ取り、作品に織り混ぜる感性もヤマシタトモコならではのものだろう。

前回ブログで書いた池辺葵も「居場所についての物語」だったが、今回の違国日記も、やはり居場所にまつわる物語だろう。3巻で叔母との居場所をオアシスに例える表現があったが、現代人が求めるオアシス的な場所や関係を見せてくれる優しい物語でもあり、さらにそこからもう一歩踏み込んで、そんな優しいオアシスでもそこに湛えられた水と完全に混ざり合うことできない、という現実まで、淡々と描いているこの「違国日記」はヤマシタトモコの一つの到達点ともいうべき作品だと思う。

「繕い裁つ人」の舞台はなぜ町家なのか?

 

繕い裁つ人(1) (Kissコミックス)
 

 

漫画家の中には特異な背景を描く一群が存在する。

例えば弐瓶勉などは背景こそが主役であると言って憚らなかったし、大友克洋は崩壊したビルの破片を頭の中で再び組み立てて崩壊の前のビルに戻すことができるという都市伝説じみた話がある。林田球の背景はその突拍子も無い混沌とした世界を、読者の脳内に定着させるのに必要不可欠な要素だ。五十嵐大介の卓越したデッサン力で捉えられた自然界は、生命力が無限に湧き上がってくるように読者に迫ってくる。浅野いにおもまた新しい時代の背景を模索しているように感じる。

今挙げた作家ような一群の作家は、割と寡作、アシスタントを使わない、そして、これでもかと背景を書き込むタイプが多いように思う。バッチリ取れたパース、雄弁な小物、壁のシミすら意志を持っていそうだ。

一方で、背景にはあまり興味の無い作家もまた沢山いる。というかこちらの方が多数派だろう。アシスタントの仕事といえばやはり背景。そうなるとなかなか背景によって世界観を物語る、ということは難しいのだろう。

私個人の趣味でいえば、背景ががっちり書き込んである漫画が好きだ。漫画では背景への書き込みの多寡が、その世界をより強固なものとして脳内に定着させてくれる。漫画の世界と強固に繋がった状態で読む物語は、やはりキマり方が違う。

さて、前置きが長くなったがここで池辺葵の「背景」について話したい。

池辺葵の作風といえば、シンプルで柔らかな線。背景もまた限定された、フリーハンドの線のみで描かれている。このような作風では自然と背景に目がいかないようになるのが自然なのだが、池辺葵の背景は、時折、何か確固とした空間設定があるように感じられる。まず「繕い裁つ人」の主人公が暮らし、仕事場としているのは土間のある町家であるように見受けられる。昔ながらの商店を引き継いでいるという設定なので、この時点ではあまり背景に目が行かなかったが、話が進むごとに、敷地の奥に蔵が建っており、中に大量の洋服が保存されている、という描写がある。この時初めて、この漫画の舞台となっているのがかなり古くからこの土地に建っている町家である、ということが分かった。しかも、よく思い返してみると店土間があり、通り土間があり、さらに奥に坪庭、そして最深部に蔵がある、という現実の町家と同じ空間構成が漫画の中でしっかりと設定されているのに気付く。

おそらく作者は町家がこのような空間構成になっているということを取材し、漫画に取り入れたのだろう。私は仕事柄、漫画に描かれる建築に着目して読んでしまうことが多いのだが、町家の空間構成を分かって漫画の背景に使う漫画家というのは中々、漫画の世界へのこだわりが強いのではないかと思う。しかし同時に、「繕い断つ人」の背景では細部がかなり省略されいているし、建築はおろか、小物に至るまでディテールに関しては全く描く気がないことも分かる。描写はしないのに、空間構成だけはやけにしっかりしているというこのアンバランスさは、一体何を意味しているのだろう?

繕い裁つ人」は漫画としてとても面白く読んだし、その爽やかな読後感も素晴らしかった。しかしこのアンバランスさがどうも気になっていた。

その後、池辺葵の新連載が始まったわけだが、なんと題材が「女性のマンション購入」というから驚いた。「プリンセスメゾン」は家族も恋人も友人もいない若年女性が自分の居場所を獲得するために、マンションを購入する、というかなり目新しいコンセプトで、もちろんただ単にマンションを買いました、終わり。という話ではなく、核心のテーマは「居場所」なのだと思う。主人公はマンション購入のために様々な人と出会ったり交流するようになり、互いに影響を与え合う。また、時折挿入されるマンションを購入した独身女性の短編的な話にも、様々な形の現代女性の「居場所」のあり方が、池辺葵流の優しい目線で描かれている。

プリンセスメゾン」を読んで、「繕い断つ人」の空間構成へのこだわりの謎が解けた気がした。言ってみれば「繕い断つ人」もまた居場所を巡る物語であり、その居場所とは時に職業であったり、友人関係であったり、シェルターとしての自宅であったりする。そのコンセプトからすれば、その主人公の住んでいる家がどのように町に接続されているのか、という空間構成はしっかりと筋が通っていなければならなかった、という訳ではないだろうか。

町家が舞台になっていのは、この漫画を構成するのに欠かせない「職住一体の暮らし」「近所との距離感」「その場所に蓄積されてきた時間」などを空間的に表現する方法だったと言うことだろう。

さて、余談だが、実写映画版では確か「繕い断つ人」の舞台は海のそばの坂の上に建つ、洋館風の建物になっていた。しかしやはりどうにも洋館では近所との空間的な繋がりが弱く、原作にあった生活ー仕事ー近所という三者の連続感が描かれていないのが不満だった。また、坪庭と敷地最深部にある蔵という私的なワンダーランドというドラマを盛り上げるマジックも、ぜひ実写で見てみたかった。

「目黒さんは初めてじゃない」は童貞の悪夢か希望か

pixiv界隈をうろうろしているときに目に付いた作品。

ほほぅ・・・と思ったので文章として感想文を残そうと思う。

comic.pixiv.net

漫画、アニメ、ゲーム、という何故か一緒くたに語られがちな「物語を軸とした娯楽」をざっくり見渡した時、もやもやと感じていた「これ男女逆のパターンってあんま無いよな」の「無いほうのパターン」がそのまま具現化したような作品、それが「目黒さんは初めてじゃない」だ。

「目黒さんは初めてじゃない」の大まかにストーリーを紹介しよう。

由緒正しきのび太系主人公の童貞男子古賀くんは、ローテンション美少女目黒さんに告白し、奇跡の交際OKをもらう。ところが彼女は二言目に発したのは「けど私、処女じゃないですよ」という衝撃の事実だった。

目黒さんの発言の真意も掴めぬまま、古賀くんは目黒さんとの交際をスタートする。

彼女はおろか友達もろくにいない古賀くんと、経験豊富だが、決してNOと言わない目黒さん、果たして二人の交際の行方はー!?

といった感じだろうか。

現在pixivで1〜6話と特別編が公開されているのでぜひ読んでみて欲しい。

僕も公開されている分しか読んでいないので、ここから先も現在公開されている1〜6話と特別編の内容だけの感想になるのでご了承いただきたい。

さて、冒頭でも触れたがこれは「漫画界(特に男向け漫画)に母親以外の非処女が存在を許されない問題」へのアンサーともいうべきエポックメイキングな作品だと思う。これがpixivの公式作品として上位に入っているという現状は、なんというか漫画の読み手も描き手も、一つの極みに達してしまった感がある。

主人公の古賀くんはとてもいいやつだ。というか一切こじらせてない童貞。こじらせてない童貞とはつまり、自分に自信はないが、そのコンプレックスが外界への敵意や認識の歪みに変化してはいないという状態だ。小学生でも簡単に風俗産業の裏側を覗くことができる現代社会で、そんなことがあり得るだろうか?と思ってしまうほど稀有な少年であり、それはまさしくこれまでの男性向け漫画のヒロインと主人公の属性を反転させた鏡像に他ならない。

話の中で古賀くんは目黒さんの非処女についてほとんど意識しておらず、それを経験豊富などという言葉でぼやかしている。彼女が過去に別な男に抱かれている様を想像して絶望することもない。極端に初心というか単に精通してねーんじゃねーの?と言いたくなる性への無関心さ。しかしこれこそが現代の童貞に求められる価値観なのかもしれない。

古賀くんの奇跡のいいやつぶりに破綻が起きない最大の理由としては、彼に友達がいないという設定によってもたらされる、ホモソーシャルからの隔離がある。男性社会の中で共有される女性情報は、世間でよく言われる「女子だけの飲み会の下ネタ」に勝るとも劣らないエグさだ。この薄暗く湿ったホモソーシャルの檻の中で、男子は、物や経験値として異性を扱うという価値観を醸成してゆく。そして同時に童貞は認識を歪ませて行き、こじらせた童貞が完成する。この蠱毒のようなホモソーシャルから隔絶されている古賀くんは、ある意味で女子にとって理想の男なのかもしれない。そしてこれは男女が逆になってもまた真理であり、多くの漫画のヒロインには女友達がいないか、いても限定された親友くらいのコントロール可能な広がりしか持たない、というよくあるパターンに帰結する。結局のところ、異性愛者であれば「異性は好きだが異性の集団は怖い」というのが本音なのだ。(物語として描く必然性がない、というのが実際のところ、最大の理由だろうけど)

対する目黒さんは1話目の冒頭で、二言目に自分が非処女であると自己申告するほど、ホモソーシャル的、もしくはこじらせ童貞の価値観を熟知している。というか彼女はどのような意図があって告白の返事の二言目に非処女であることを宣言したのだろうか。もちろん、作者としては漫画のインパクト、掴みとして非常に優れたやり方だから、ということは承知の上で、ここで考えたいのは、よく考えたら不自然な自己申告を割とすんなり受け入れた読者(それはつまり僕のことなのだが)の中に潜在している価値観についてだ。

付き合う彼女が処女(童貞)であることを気にするか?または経験人数何人までならOKか?という問いはこれまで散々繰り返されてきたことなので、告白のタイミングでこれについて言及するというのは正しいことかもしれないが、現実的にはほぼありえない。誰だって表面上はそんなこと気にしないという体でいるわけだから。そんなこと気にしてないよというのが正しい建前であり、それが正しい建前であるということは、多くの人間にとって大いに気にする問題ということだ。

エロ本の世界を除いて、漫画の世界ではより露骨にこの価値観に忖度するのが常識になっている。

ヒロインたる目黒さんが非処女という属性を持ちながら、同時に世間の反非処女的価値観を象徴するセリフを伴って登場する冒頭シーンは、僕ら自身の目を背けたい本音と建前を露わにさせる。

目黒さんというキャラクターについては6話まで読む分にはまだあまりその人格形成の過程については語られていない。今のところ言えるのは、やはり彼女の空虚なキャラクター属性もまた、やれやれ系主人公の性別反転ということができるかもしれない。

ここまでとりとめもなく思いついたことを書き留めてきたが、そもそもこれは読者に男は、そして童貞はどれくらいの割合でいるのだろうか。多分だけど、ほとんどいないと思う。胸囲の大きな美少女が大きく描かれた表紙(サムネイル)から勝手に男性向けの内容かと受け取ってしまうが、その内容は、美少女のヒロインを男子の目線で眺めるのではなく、むしろ主人公の男子のイケメンぶりを楽しむ少女漫画的な作品だからだ。

ではこの作品では男性読者や童貞読者を完全に切り離しているのかというとそうでもなさそうだ。この作品の童貞にとっての救いは、おそらく、目黒さんの心の処女はまだとっておいてある、という点だろう。深く閉ざされた心の処女(ってなんだ?)に純真で優しい古賀君がリーチする時のカタルシスを期待して読めば、きっとまださほどダークサイドに染まっていない童貞なら楽しめるのではないだろうか。

僕がこの作品から感じた衝撃は「胸囲の大きな女の子が表紙に描かれている」=「男向け(男へのサービス商品)だ」という、文章にするとなんだかもうため息しか出ないような思い込みに前頭葉をヒタヒタに浸した状態でこの作品を読み始めると、冒頭の「私処女じゃないですよ」という一言でバシーッっとひっぱたかれる仕組みにゾクゾクした結果だ。

この漫画はセックスのギャップについての物語という表面を持ちながら、同時にジェンダーのギャップについても言及できる可能性を持った漫画になっている。属性を反転させて考えてみる、というのは道徳についての思考実験の常套手段かもしれないが、それが娯楽としての可能性を秘めているというのは、個人的に発見だった。とにかく、いろいろと考えるきっかけになりうる漫画だと思うので、ぜひ読んでみて欲しい。

 

目黒さんは初めてじゃない(1) (パルシィコミックス)