「プリズン・サークル」内省のサバイバル術

私はわりと不謹慎な人間なので仕事の合間に行った家庭菜園の畑作業では、昨今の閉塞した社会の空気を勝手に「ポストアポカリプスみ」に変換して、文明崩壊後に細々と自給自足している自分、という妄想で楽しく雑草を抜くことができた。
不謹慎とはいえ、外出自粛は割としっかり守っている。(不謹慎と不用意は違う)
そのため、毎週見ていた映画も、マクドナルドに行っての読書もここのところ全く捗っていない。
そうなってくると普段は新しいフィクションによって常に上書きされ、記憶から抜け落ちる「感想」のようなものがいつの間にか脳内に醸成されてくる。
今日の畑作業中にある程度発酵が進んだようなので、こうしてブログに記録しておきたいと思う。
一番最近見た映画は「プリズン・サークル」だ。
先に言っておくと、社会的な意義の大きな作品であり、社会をより立体的にとらえるための新しい視点を与えてくれるドキュメンタリー映画だった。
ただ、恥を忍んで言えば、このドキュメンタリー映画を見た私の個人的な動機は、私が「監獄もの」や「入院もの」という、「非日常に閉じ込められ、否応なくそれが日常となる」「密室に居続けなければらない」というようなジャンルを好んでいるという一点に尽きる。これもまた私の不謹慎な性質によるものなのかもしれない。
言い訳をさせてもらえばこの性質は小学生の時期にすでに発現していたもので、当時の愛読書は「31歳ガン漂流」だった。
31歳ガン漂流

31歳ガン漂流

 
特に闘病経験もなく、あるのはせいぜい風邪かインフルエンザ程度の子供にとって「入院」というのは「体温計の数字の上昇によって学校に行かなくていい日」の無期限延期状態、というような認識でしかなく、学校でありふれたいじめの渦中にいた私にとってそれは甘い陶酔をもたらす妄想であった。
というわけで、この性向はすでに自分の意志での矯正は不可能なほど私の人格と一体化しており、根本的な治療を施すには「入院」が必要だろう。
プリズン・サークルはドキュメンタリーとして画期的(この表現が正しいのかわからない)な作品であり、これまで漫画や文章という形でしかほとんど一般の社会には出回らなかった日本の刑務所の内部に、じっくりとカメラを据えてその様子を実写で捉えている。業務の一部が民間に委託され、ロボットが食事を運んでくる、というような最先端の刑務所であり、そのあたりがカメラを入れることを許された理由のような気もしなくもないが、とにかく、日本の刑務所内を実写で撮影することは難しいらしい。
出てくる人は加害者と数名の職員だ。
収監されたことこそ無くとも、大なり小なり加害者という立場になったことはある、という人が多いのでは無いだろうか。もちろん私もそうだ。実際に加害者になったことがあるし、また、自分は今誰かにとっての加害者になっているのでは無いかという疑念を抱くことが多い。また、誰かに加害してしまう未来を妄想することもある。いろいろな形で「加害者の自分」について考えることがある。
インターネット上でよく見る画像に「こち亀」のあるシーンを切り抜いたものがある。真面目に生きてきた人よりも、人に迷惑をかけまくっていたヤンキーが更生すると賞賛を浴びるのはおかしい、という内容で、まぁそうだね、と思うようなことを言っているわけだけど、じゃあ自分が加害的な立場に立った時ってそんなにいい待遇だったか?と思うとそんなわけが無い。確かに悪いことをした後に良いことをすると評価されやすいのは事実かもしれないが、それは一面的な見方であって、本当のところは「加害者が良いことをすると過大に評価される」のではなく、「加害者は常に行動が評価され続ける」という方が正しいのでは無いか。これはよく考えてみる必要が無いほど地獄だ。私なら耐えられない。逃げ出したいと思うだろう。でも犯罪を犯し収監された人は刑務所の中でも、また出所後であっても前科を知られた周囲の人間から「評価」され続ける人生が待っている。本当に反省したのか?本当は良い人間なのか?やっぱり悪い人間なのか?また罪を犯すのでは無いか?いやもうすでに…そんな面接官に囲まれて生きていかなければならない。そしてさらに、真面目な人間ならつい自分で自分を評価してしまうのでは無いだろうか。自分が本当に反省した、なんて言い切れる人間がいるだろうか?いるとしたらそいつは多分あまり誠実な人間では無い。誠実な人間ほど自分を疑い、罰し続けるだろう。
プリズン・サークルで出てきた加害者が本当に誠実な人間なのかは知らない。本人にも分からないことだろう。ただ、このドキュメンタリーにまとめられていたプログラムは評価され続ける今後の人生とうまく向き合って行く方法を受刑者に与えるのでは無いだろうかと思った。おそらく、多くの人間は評価され続ける出所後の生活に耐えきれない。自分の過去を知っている人の前から姿を消すか、罪を自己と悪い意味で同一化し再犯を重ねるか、そんなところかも知れない。でもいろいろな手法と相互扶助によってその過酷な評価の嵐を生き抜いていく「内省のサバイバル術」のようなものを教えている、そんなふうに感じた。
少なくとも、自分の身内が被害者になり、犯人が捕まったとして、その犯人には刑務所内で雑巾を縫うのではなく、このようなプログラムで自分の罪や人生と向き合って欲しいと、少なくとも、当事者でない今はそう思う。